2018年1月28日日曜日

「国破れて、末人あり」を超えて(自由の森で語る第1回自主講座「ゲスト柄谷行人」から)(1995年10月28日)

かつて、中国の詩人杜甫は「国破れて、山河あり」とうたいましたが、現代は「国破れて、末人あり」です。
その末人について、
以下は、1995年10月28日、私立学校の自由の森学園で開いた第1回自主講座で、ゲストの柄谷行人さんの発言です。

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司会
じゃ、最後にどうぞ。

父母
正直言って、僕、自由を本当に考えている人か、いや自分が不自由だということを真剣になって考えている人は、周り見て自分もよくよく考えてみると、ほとんどいないんじゃないかと感じています。
今自由じゃなくて、僕自身の今の状態、結構不安なんですよね。それで、自森の今の状態なんかでも、すごく不安です、正直言って。
だからそういう意味で本当に自由っていうものは何なのかっていうことを問い直さなくてはならないんじゃないかなと思っているんです。

自分の家庭の中でもそうなんですけど、自分の本当の思っていることを言えないっていうか、表現するのが悪だという感覚があって、それを抜け出さなきゃならないんじゃないかな。そういう意味では先程の女性だけだとか、そういうふうな人しか小説なんか書けないっていうような論調に僕はとったんですけど、そうじゃなくてあらゆる人が言われていた今を認識するっていうか、そっから自由が“である"んじゃなくて“となる"というところに、自由が本当にあるんだということが言われていましたけれども、そういう意味で、あらゆる人が小説も書けるし、もの書きのもなれるし、創造者といようなものをやっていく可能性があるというか、そういうものを充分もっているんじゃないかと思うんです。

そういう意味で、自森の子供達の様子というか、僕なんか来るのは何か行事があったり、寮の父母なんですが、父母会のような時しか子供が見えないわけですね。だけど、表面みると、煙草吸ったり、トイレの中のドアが壊れたり、そういうような状態しか目にっかないんですけど、ぽけっとして、講堂なんかの子供達がやっていることとか、学園祭の時玄関ホールで中学生の女の子がコーラスをやっていましたけど、その中で強制されなくてやっている、輝いているものがあるんですよ。そういうものに心豊かにさせられる、引きっけられるんですが。こういうふうに自森、自由というものが成り立っているものだから、その中で育っているものを我々自身がもっと重視し、認識していかなければならないんじゃないか。その中で育つものに大きな希望があるんじゃないかということが今感じている素直な感想です。

柄谷
小説に関して言ったことは、貴方が言ったのとぜんぜん逆の意味ですよね。僕の言ったのは。簡単に言うと、小説が全く重要な意味をもった時期とそうでない時期があるということです。小説において、かって宗教がそうであったぐらいの情熱が注がれたわけです。
また、そのような器でもあった。戦後文学をみたら分かります。あらゆるものがそこに投げ込まれているわけです。今それをそれをやっている人がいて、この前埴谷雄高が発表しましたけど、彼は60年間同じものを書いているわけです。

しかし、今は小説はそのような器と成り得ないだろうと思うんですね。それは何も悪くないと思うんですよ。それはそれで。他にいろいろあるわけですから。昔みたいに何もなかったんだから、小説しかない、となるわけです。それから他のものがあまりにも脚光を浴びなさ過ぎるということがあるんですね。例えば野球だったら野球ばっかしで、他のスポーツはオリピックぐらいの時に騒がれて、やっぱりやる気がなくなるでしょ。そういう意味でいくと小説、小説と騒ぎ過ぎるなといいたい。なんなんだということでね。何もないじゃない。僕も批評家みたいなことで、最近選考委員なんかいくつかやっているんですけど、もう読むのもいやでね、なんだって、ものすごい時間のむだをしたっていう。昔のものはいいんですよ。だけど、今の小説を読むと、結局、時間を浪費した、そのなんていうか怒りで、耐えられないですね。

そのことは別にしまして、もう一っのことですけど、今日、柳原さん自身からも感じたことなんですけど、この学園は親が熱心ですよね(笑)。それで、こういう所に来るでしょ。ふっうはないんですよ、こういうことは。そのことだけでも、変わってるんですから(笑)。その場合、親の夢というものが入っていると思うんですけど、親は何者なのかっていうと、必ずその反面教師をもってきた人達ですよ。つまり、自由がなかった人達ですよ。ですから、子供にはそれをさせないようにする。そういうことがあるんです。しかし、そのような条件をもともともった子供達はどうなるのか、ということを考えていないと思うんです。おそらく、そこから今の問題(学内暴力事件)は出てきているはずなんです。ですから、それは重要な実験だと思うわけです。未来に関して。

歴史の終焉という議論があった時に、日系のアメリカ人でフランシス・フクヤマっていう人が、へ一ゲルをつかって書いたんですけどね。量後の人間っていうことを、“末人"というんですけどね、末の人っていう、これはですね、何をやっているかというと、だいたいそれを考えた人はフランシス・フクヤマではなくて、一人はコジェーブっていう東欧からフランスヘ行った人なんですけどね、その人がそういうことを言ったんですけど。
へ一ゲルから歴史の終わりにはどういう状態になるかと言った時に、彼は最初ね、アメリカ人のようになる。アメリカ人のようになる、どういうことかって言うと、動物性というか、精神が全くない。フロリダあたりで、もうひっくり返っているような人達、そういう感じでしょうね。しかし、そのコジェーブが1960年くらいに日本に来たんですね。そうするともう、考えを変えてね、本の第二版には、註にね、書き加えてるんです。「私は今まで歴史の終わりにはアメリカ人のようになるんだろうと思ったが、日本人のようになる。」(笑)。どういうことかって言うと、全く精神のない動物にはならない。だけど、精神的な闘争とかですね、へ一ゲルは闘争があることが精神なんですから、それがなくなった状態っていうのがどうなるかっていうと、本当は彼は、スノビズムといっているんですけど、いわゆるスノーブではないんですね。どういうことかって言うと、日本は1600年以降、歴史のない時代に入った。戦争が終わったわけですね。そうすると無意味なことをやる。まあ、生け花でも何でも。腹切りもそうなんですね。ほとんど無意味なことをプレイとしてやる。そのような、別に彼は日本の事をよく知っているわけでも何でもないですよ。ただ、ある意味で当たっていると思うんですが、彼が言うには、世界は今後日本化するだろう。そうするとね、僕が思うには、ある種の精神性を持たない、しかももう実現すべきものも何も持たなくなってしまって、最終段階っていうのは、どういうふうになるか。なんか、アメリカ的になるか、日本的になるか、確かそういう感じがするんですよ。

でも、僕はそれは、最後ではないと思っているんですよ。それはね、全世界がそうなるっていうことになった時はそうなる可能性もあるが、今の段階では、日本でそうなっていようと、外は違うんですね。外には貧困もあれば、もう絶望があるわけです。単純にあるわけです。そのようなことを全く無視していられる状況が、日本にあるだけなんですね。そうであれば、それは末人でもなんでもないわけです。最後の人間でも何でもないわけです。そのような条件そのものが崩壊する可能性もあるわけです。
ですから、僕はむしろ、認識っていっているのは、そういうことを認識するべく、やるべきだと思っているわけです。そうでないと、少なくとも、外からの緊張っていうのはここに入って来るはずですよね。それで、(自由の森という)場所だけで、場所として自由を確保していくというだけでは、結局はそれは耐えられないだろう。僕はやっぱりその、闘う用意をしておくべきだと、闘うというのは自由であるべく闘うという用意ですね。それをしてないと、まあ、末人のようになってしまうんじゃないか。

司会
最後に一言だけ、話をさせてください。今日長時間にわたって、柄谷さんにいろんな話をしていただいたんですけど、私自身、柄谷さんがこの学校に来てくれることが、まだ本当に半信半疑だったんですけど、最後に末人の話を聞きまして、少し納得がいきました(笑)。
やっぱり、ここは自由の実験をやるべく学校であるということですね。四苦八苦されると思いますが、そういう意味では非常に、やり甲斐のある学校であることを、柄谷さんから注目というか、認めてくれたということになりまして、またばかな親として、引き続きがんばろうと思います。

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